フランシス・ゲーリー・パワーズ

U-2を使用した偵察活動の内容はソ連などの敵国上空から軍事施設やその他の重要施設の写真を撮影することであった。1960年5月1日、パワーズの操縦するU-2はソ連スヴェルドロフスク上空でソ連防空軍のSAM(地対空ミサイル)によって撃墜された。パラシュート降下したコスリノ(ロシア語版)で彼を救出した地元住民は当初赤軍兵士と勘違いしたが、所持品からスパイと見破った。

パワーズは公開裁判にかけられ、スパイ行為を行っていたことを自白した。8月19日、ソ連に対する諜報行為のため有罪を宣告され、禁固10年を言い渡され、シベリアに送られた。しかし、元OSSのドノバン弁護士とソ連側のシスキンKGB西欧本部書記官間の交渉により、1962年2月10日、東ドイツ(当時)・ポツダムのグリーニケ橋で、同じくスパイ容疑で拘留されていたアメリカの学生・フレデリック・プライヤー(フリードリッヒ通りで解放)とともに、アメリカで逮捕されたKGB大佐ルドルフ・アベルと交換する形で解放され、無事アメリカに帰国することができた。

シンクロニシティ

ユングのシンクロニシティの最も有名な例は、プラム・プディングに関わるものである。ユングの語るところによれば、1805年にフランスの詩人エミール・デシャン(en:Émile Deschamps)が、ドゥフォルジュボー(de Forgebeau)からプラム・プディングをご馳走してもらったことがあった。その10年後の1815年、デシャンはパリのレストランでメニューからプラム・プディングを注文したが、給仕は最後のプディングが他の客に出されてしまったと告げた。

その客とはドゥフォルジュボーであった。更に17年経過した1832年、 デシャンはある集会で再びプラム・プディングを注文した。デシャンは昔の出来事を思い出し、「これでドゥフォルジュボー氏が居れば役者が揃う」と友人に冗談で話していた。まさにその瞬間、年老いたドゥフォルジュボーが部屋に入ってきたとのことである。
ユングの説明とは裏腹に、デシャン自身はドゥフォルジュボーの名を「ドゥフォンジビュ(de Fontgibu)侯爵大佐」としていて、ナポレオンに敵対して戦ったと書いている。しかし「ドゥフォンジビュ」という名の軍人貴族はフランス史のどこにも登場しないため、このプラム・プディングの話はデシャンによる作り話と考えられる。